Word file 　春の心地よい日差しの中、若者が草原を歩いている。若者の 視線の先には大きな木があり、その木の向こう側に空色のスカ ートが揺れているのが見える。 　そして、白く細い手が現れ手招きをしている。若者は、はやる 心を抑えてゆっくりと歩いて行く。白い手の動きが止まり、長い 金髪の乙女が顔を出し、若者に笑顔で叫んだ。 「マイロ、早く。」 　若者は、乙女に向かって両手を振りながら大声で応えた。 「わかったよ、リカイ。じゃ、走って行くから。」 　マイロは、上着を脱いで腰に巻き、草原を走り出した。都市で 生まれ育ったマイロは、草原を歩くことに慣れていない。まして、 草の上を走ることなど初めてのこと。 　ほんの少し走ったところで、草に足を取られて前のめりに倒れ そうになった。態勢を立て直そうと試みたが、足に力を入れ過ぎ たために土と一緒に草を跳ね上げ中に浮いた。そして、地面に 叩きつけられた。 　だが、痛みは感じずに妙な冷たさが顔を覆っていた。軟らかく 冷たい感触が、全身に伝わっていく。顔を上げたマイロの前には 転倒する直前に見た草原ではなく、月明かりに照らされた雪原 が広がっていた。蒼く輝く雪原には、大きな木もなくリカイの姿も 消えていた。 「リカイ、リカイ。」 　何度叫んでも返事はなく、マイロの声はむなしく雪原に響くだけ だった。マイロは、ともかく大きな木があった方向に走りだした。 深い雪をかき分けて走って行くと、雪に埋もれた空色の布が有っ た。彼女を求めて一心に雪を払い退けたが、全く感触がない。 凍えて震える指に息を吹きかけて、更に深く掘り進んだ。手が硬 いものに突き当たった。 　それは、硬く冷たいガラスの彫像ようだ。マイロは、その正体を 探るために横方向に雪を退けていくと、人体のような影が浮かん だ。彫像に付着した雪を取り除いたマイロの目に映ったのは、リ カイの姿ではなく、見たこともない女性の姿だった。氷に埋もれた 裸体は、凍傷の跡もなく月光を受けて青白く輝いていた。 　マイロが女性の顔のあたりを氷の上から触れると、硬い氷の感 触がなくなり、まるで水に手を入れるように抵抗もなく、手首まで 入った。さらに奥に手を入れようとしたが、一瞬のうちに氷が融け 、体が水の中に引きずりこまれた。冷たい水を鼻と口から吸い込 んだマイロは、苦しさにもがいたが、掴むものが全くない。体が水 中に沈んでいく。 　目を閉じて絶命を覚悟したそのとき、体にかかる水圧がなくなり、 空中を落下していくのを感じた。目を開いて下を見た。先に見た雪 原が急速に迫ってくる。マイロは、雪の上に落下した。恐怖と寒さ で震えが止まらない。 「落ち着いて、マイロ。寒いのは、あなたの理性のせいよ。雪の中 だから寒いはずだと思っているだけよ。力を抜いて肉体の感触だ けに意識を集中してごらん。」 　その声が命ずるままに力を抜くと、嘘のように寒さが消えた。雪が 暖かい、そう感じる。 「そう、寒くないでしょう。こっちを見て。」 　氷に埋もれていた女性が立っていた。彼女は、手を伸ばしてマイ ロの肩を掴んだ。その手は、直接マイロの肌に触れている。服の上 から触れているはずなのに。不思議な感触に自分の肩を見た。何 も着ていない。マイロは、生まれたままの姿で雪の上にいた。 「マイロ、何も心配はないわ。寒くないでしょ。さあ、こっちへ。」 　マイロは、その女性に手を引かれて歩いて行った。しばらく歩いた 先には、輝く氷の城があった。城の門は、二人を招くように音もなく 開いた。中庭は、全て氷と雪で作られた庭園になっていた。氷で区 画された花壇には、草も葉も茎も水晶のようにきらめく花が咲いてい る。庭園の中央にある鏡のような池には、水ではなく雪を吹き上げ る噴水があった。そこから吹き上げられた雪は、氷の幹と枝を持つ 木々に積もっていく。 「さあ、横になって。疲れたでしょう。少し休みなさい。」 　マイロは、雪と氷が放つ虹色の反射光の中で横になった。見てい る風景とは、全く感触が一致しないが、暖かい空気に包まれて深い 眠りに落ちた。

マイロが目覚めたのは、稲妻に打たれたような衝撃のためだ った。暗闇の中でマイロを襲った衝撃は、その後もしばらく彼の 体を激しく揺すった。苦痛に耐え切れず叫ぼうとしたが、何かが 口の中に詰まっていて声が出せなかった。そこで、舌で詰まっ たものを探ろうとしたが、詰まっているのは自分の舌そのものだ った。力を入れて動かそうとしたが、口の中に張り付いてしまっ てい、口も開けることが出来ない。 　手で口を開こうとしたが、腕も全く反応しない。感触はあるのだ が、筋肉が反応しない。やがて、振動が止まり少し落ち着いたマ イロは、自分が置かれている状況を思い出した。眠る前の記憶 、それは故郷の惑星を旅立つときの記憶。 　人口冬眠に入る直前、愛する恋人がカプセルの中から、自分 のカプセルに向けた笑み。マイロは、自分のことより恋人リカイの ことが気になり、暗闇の中で彼女が入っているカプセルに目を向 けた。そのとき、口中に暖かい液体が流れてくるのを感じた。 　その液体が、氷を融かすようにゆっくりと舌の硬直を解いていく 。筋肉もそれに合わせて動き出した。 　ひどくゆっくりとではあるが、周囲が明るくなっていく。口の中に 流れてきたのは、外部からの注入ではなく、体液の循環が再開 したことによるものだった。まだ、硬直がとれていない首の筋肉を 動かして、リカイのカプセルを見たが、変更樹脂で作られたカプセ ルは黒いままで、再生が始まっていないことを示していた。 　この変更樹脂は、長い間光を見ていない目を保護するために、 中にいる人間の再生状況に合わせて色が薄くなっていく仕組み だ。恒星間宇宙船ルコイライは、マイロを含めて乗員300名を乗 せて74光年の旅を終え、目的地である惑星ルコイの周回軌道上 にあるはずだった。 　まだ、意識がはっきりしないが、マイロは訓練どおり操縦席に着 き、惑星観察行動をコンピュータに指示した。しかし、コンピュータ は、観測目標の惑星を捕捉出来ずに停止した。 　しかたなく、マイロは船窓の遮蔽装置を解除して、肉眼で観測す ることにした。だが、窓から見えるはずの青い惑星はなく、真っ白 な大地が視界いっぱいに広がっていた。極地に着陸してしまった のだろうか。 　マイロは、船外の大気と現在位置を調べるようにコンピュータに 指示した。そして、窓の倍率を上げた。白い風景の遥か彼方に搭 のような物を発見したが、吹雪が舞い視界を完全に遮断してしま った。赤外線探査に切り替えようとしたとき、コンピュータの回答が 出た。 　現在位置、データにない惑星上。地球からの距離、推定300光 年。船外大気は、呼吸可能。気温マイナス15℃、湿度45％。出発 してから900年経過していた。 　何が起こったのか、全く理解できないが、船の航行能力を遥か に超えた時間が経過している。乗員300名の冬眠を維持出来るの は、500年が限界だったが、地球と惑星ルコイを往復するのには 十分だった。コンピュータの計算が間違っていなければ、マイロは 生きてこの惑星に到達しているはずがない。 　なぜ、目的地から大きく外れた惑星に到達したのか。コンピュー タに尋ねても「不明」としか答えない。しかし、どうして航行能力を 大きく上まわる旅が出来たのか、コンピュータはその疑問に冷酷 な答えを出した。 　航行能力の限界に達した船を維持するために、可能な限りエネ ルギーの消耗を避けた。コンピュータは、最もエネルギーを消耗す る冬眠装置を一人づつ無作為に停止していったのだ。そして、最 後の一人になったとき、人類が呼吸可能な大気を持つ惑星を発見 した。そして、コンピュータはマイロを覚醒させた。 「リカイ。」 　マイロは、リカイが眠っているはずのカプセルに駆けつけた。 「リカイ・・・。」 　偏光樹脂を通して見えたのは、若く美しい彼女ではなく、白骨化 した遺体だった。 　この船に乗るために受けた過酷な試練と訓練、新天地でリカイ との希望に満ちた生活。その全てが消え去った。そして、船の動 力が限界に達していることが、ゆっくりとした死を彼に突きつけてい る。しかし、自分のことより恋人を亡くしたことに絶望したマイロは 、操縦席に戻り窓から絶え間なく降り注ぐ雪を見つめた。 　やがて、外が暗くなり惑星の夜を迎えた。一度真っ暗になった風 景に青い光が差し込む。それは、この惑星の月からの光だった。 雪原は、蒼く輝いた。未知の惑星なのだが、その光景はなぜか懐 かしい。マイロが育ったのは、温暖でめったに雪が降らない地域 だった。だが、故郷に戻ったような不思議な気持ちがする。 　月明かりに誘われるように、船外に出たマイロは、遠くで手を振 るリカイの姿を見つけた。これは、幻影なのか。それとも冬眠中の 夢なのだろうか。どちらにしても、ここに座っていても何も解決しな い。 「リカイ、今いく。」 　船を飛び出したマイロは、深い雪の中をリカイ目指して進んだ。 しかし、彼女に手が届きそうになったとき、その姿が青白い風景に 溶け込むように消えてしまった。 「いったい、どうしたって言うんだ。」 　マイロは、月に向かって叫び雪の上に倒れた。息が切れる。冬 眠りから覚めたばかりの体は、急激な運動に耐えられなかった。 心臓と肺が破れそうだ。喉が渇く。水、そうだ雪だ。マイロは、一握 りの雪を口に入れた。雪は水となり、喉が潤う。少し落ち着いたマ イロは、月光を手で隠し、澄んだ夜空を視界の端から端まで目で 追った。そして、服に付いている通信機をオンにした。 「あれは、カシオペアか。少し形が違う。星座の形が変わるほど、 遠くに来てしまったようだ。」 　もう立ち上がる力がない。今の通信を誰かが聞いて、ここに自分 が居たことを知るかもしれない。人間が呼吸出来る大気を持った 惑星がここにある。大きな犠牲を払った探検だが、いつかここに街 が出来るかもしれない。そう思うことが、せめてもの救いだ。 　マイロの腹が鳴った。こんな状況でも腹が減るとは。最後の食事 が雪球か。マイロは、もう一度雪を掴もうとした。指の先に何かが 当たった。平らで角がある。大きさは、拳ほど。それは、透き通った 立方体だった。

立方体は、マイロの手の中で光り始めた。暖かい、温度が急 激に上がって行く。体が程よく暖まり、周囲の雪が融けはじめ た。足が動く。マイロは、立ち上がった。すると、立方体が強烈 な光を放った。 　反射的に立方体を手放した。雪の上に落ちたそれは、赤く燃 えるような色に変化した。それが雪を融かして行く。足元の雪 が流れ、下からシングルベッド大のガラスが現れた。それは、 直方体の容器のようだ。中には、緑色の液体で満たされてい た。 　マイロは、膝をついて中を覗いた。そのとき、ガラスに亀裂が 入り砕け散った。マイロは、逃げる間もなく液体の中に沈んだ 。逃れようとしてもがくマイロの口と鼻は、液体に満たされ呼吸 が出来ない。 「落ち着いて。ゆっくり息をして。液体を呼吸するのよ。」 　どこかで聞いたことがある声だ。マイロは、大きく息を吸い込 んだ。肺が液体で満たされたが、苦痛を感じなかった。 「そう、それで良いのよ。力を抜いて。」 　全身の力を抜いたマイロは、体が浮くのを感じた。そして、急 速に落下。全身に付いた液体のせいで何も見えないが、急降下 していることは分かる。落下による加速は、数秒間つづきやが てゆるやかな滑り台を下りる程度に減速した。 　ついに落下が止まり、薄暗く硬い地面の上に着いた。液体が 体から離れていく。床に流れたそれは、垂直に伸びた。液体は 、ゲル状に変化し、更に動きながら硬い物体に変化しようとして いる。 　ゲル状の中に白い骨が形作られていく。人体の骨格標本の ようだ。骨格が完成すると肉がそれを覆い、最後に皮膚が形成 された。それは、緑のゲルが消えて現れたのは、何も身に着け ていない美しい女性だった。 　その女性は、マイロの腰に手を回しキスをした。その感触は、 間違いなく人間のそれだった。彼女は、キスをしたまま片手を 天に上げた。周囲が真昼のように明るくなり、風景がマイロの 目に飛び込んできた。それは、クリスタルのように輝く宮殿だ った。 「さあ、こちらへ。」 　女性は、マイロの手を取って宮殿に導いた。木も草も何もかも 白い庭園は、まるで全てが凍結しているようだ。二人は、白い芝 の上に座った。マイロは、女性の目を見て言った。 「これは、どういうことだ。君は、いったい何者だ。」 「私は、シュメーリル。そう呼ばれていたわ。あなたは、マイロと 呼ばれていた。」 「なぜ、僕の名を知っているのだ。」 「ずっと昔、あなたの半覚醒精神に感応した。私の心にあなたが 答えてきた。」 　シュメーリルは、手を彼の胸に当てた。その手は、上着を通り 抜け肌に触れた。全身の力が抜けていく。彼女の手は、胸から 脇へ、そして背中に触れて止まった。彼女の脚がマイロの脚に 絡みつく。軟らかく少し冷たい感触が、マイロの唇を覆いつくし 二人の体が融合していく。マイロは、全身にシュメーリルの肉体 と精神を感じながら言った。 「ここは、どこなんだ。そして、君は何をしようとしている。」 「聞いてどうするの。ここには、あなたと私だけ。二人とも故郷に 帰るすべをなくしている。」 「それは、そうだけど。君のことを知りたい。」 「この星は、流刑者の地だったのよ。そして、忘れ去られた。私 は、流刑者の最後の子孫。原因不明の病気が広がり、私だけが 生き残った。一人きりになったとき、雪の下に埋もれて誰かが来 るのを待つことにしたのよ。体の分子構造を変えて、宇宙に精神 を飛ばして反応を待った。600年前、遭難した宇宙船から反応が あった。」 　マイロは、冬眠から覚醒する前に見た夢を思い出した。 「そうか、あれは君の仕業だったのか。」 「そう、船は私の念波に誘導されて到着したのよ。」 「299人を犠牲にしてね。なぜ、そんなことをしたんだ。」 「寂しかった。ただ、それだけ。でも、あなたに逢えたから寂しく ないわ。」 「シュメーリル。」 「マイロ。」 　雪に埋もれた宇宙船ルコイライの傍に、小型の宇宙船が着陸 していた。四人の宇宙服を着た人間が、緑の塊の周りを囲んで いる。一人がゲル状の塊をかき分けた。中には、穏やかな顔を したマイロの姿があった。 「死んでいますね。」 「凍死なのか。」 「いいえ、一酸化炭素中毒のようです。」 「よし、捜索終了。ルコイライ乗員の全員死亡を確認した。」 　捜索隊が飛び去った後、シュメーリルとマイロの上に雪が、包む ように降り積もり、周囲の雪原と同化していく。