四月、大学の入学式を終えた新入生が講堂から波のように出てくる。その人波
から少し離れたところに、二回生の留美と恭平が険しい顔で話していた。
「もう、ホテルも予約してあるんだ。」
「まさか、選ばれるとは思わなかったんだもん。」
恭平と留美は、五月の連休にオートバイでの旅行を計画していたのだが、大学
の交換留学生審査に留美が受かり、イギリスに二ヶ月間行くことになった。
「そりゃ、恭平には悪いと思うけど、こんなチャンスめったにないから。」
「俺と旅行することは、いつでも出来ると思ってるのか。」
「そんなこと・・・比べられないでしょ。こっちは、また今度ってわけにいかな
んだから。」
「また今度、か。俺に二度と会えないかもしれないぞ。」
出発まであと一週間、友達の恵子とイギリス行きを祝うために飲みに出かけ
た。夕暮れのレストランのテラスでワインを飲んでいると、救急車がテラスの前
を通り過ぎて行った。救急車を目で追う留美に恵子が言った。
「留美、どうしたの。」
「ううん、なんでもない。」
「ねえ、それで恭平とはあれから話しもしてないの。」
留美は、ワインを飲み干して答えた。
「そうよ。もう二週間になるわね。」
「じゃ、恭平が言ってたこと本当だったんだ。」
「何か言ってたの。」
「うん、あんな女もう忘れた。って。」
「ふーん、まあいいわ。これですっきり、むこうへ行けるわ。」
とは言ってはみたが、しこりが心の隅に残ったままだった。
出発の前日、留美の携帯電話に恭平からかかってきた。無視しようと思った
が、とりあえず出てみると、いつもの恭平の調子とは違っていた。
「もしもし、上田恭平と申します。」
「はい。」
「あのう、失礼ですけどルミさんですか。」
「冗談は止めてよ。」
「すみません、ぼく、あのう。」
「言いたいことがあったら、はっきり言いいなよ。」
「あの、実はぼくの携帯の着信記録にルミさんの記録があって。」
「そりゃ、そうでしょ。で、なんの用。」
恭平の話しは、留美の思いもよらないことだった。恭平は、交通事故で記憶を
無くしていた。体のほうは、順調に回復しているのだが、記憶は戻らず自分が誰
なのか思い出せないと言う。そこで、自分の携帯にあったルミの番号にかけたの
だった。
「本当に記憶がないの。」
「はい、ほんとうです。僕のこと教えて下さい。」
「じゃ、試しに行くわよ。今、どこにいるの。」
「はい、ぼくが住んでいたらしいアパートです。
留美が恭平の部屋のチャイムを鳴らすと、松葉杖をついた彼が出てきた。留美
の顔を見た恭平は、首をかしげて言った。
「あの、なんでしょうか。」
恭平の不思議そうな顔は、記憶喪失が真実であると告げていた。
「ほんとうに忘れたようね。留美です。」
「散らかってますけど、よかったら入ってください。」
留美が部屋に入ると、恭平が台所に向かいながら言った。
「インスタントしかないけど、コーヒー入れます。座っいてください。」
「あの、私が入れるから。」
「ああ、どうもすみません。」
恭平が大きなクッションに腰を下ろした。彼女は、手際よく
ポットやカップを用意している。
「あのう、ルミさんはここに来たことがあるんですか。カップがある所も知って
るみたいだし。ぼく、ここに来た日なんか、どこに何があるのか分からなかった
んです。」
留美は、恋人だったことを話すべきかどうか迷っていたが、
「あっ、たいていどこでもカップとか置いてある場所、決まってるでしょ。」
そう言って、流し台の下からフライパンを取り出した。
「ほら、フライパン。ね、だいたいここにあるのよ。」
留美がコーヒーを入れて、恭平の傍に座ると彼が言った。
「あのう、ぶしつけで悪いんですけど、ルミさんとぼくはどういう。」
「大学が同じで、サークルで知り合ったのよ。恵子のことは、覚えて・・・ない
か。」
「はい、すみません。その人と僕は。」
「ああ、特別な関係じゃないわよ。あなたには、いっぱい友達がいたわ。そう
ね、あなたは面倒見が良くて、みんなに信頼されてた。私もその中の一人。」
「そうですか。」
「そうよ、旅行・・・合宿の手配なんか全部やってくれて。だから、恵子なんか
恭平の頼みだから断れないわ。って言いながら、楽しそうにサークルの世話をし
ていたわ。」
恭平は、コーヒーカップを見つめて言った。
「そうですか。そんな良い友達を、みんな忘れてしまった。」
「あせらないで、ゆっくり思い出して。」
「はい、ありがとう。また、電話かけても良いですか。」
「ごめんなさい、私明日からイギリスへ留学するんです。」
「そうですか、頑張って下さい。あなたのような優しい人なら、あっちでもすぐ
に友達ができますよ。」
「あ、ありがとう。それじゃ、私帰ります。」
「忙しいのに、どうもすみませんでした。ぼくには、友達がたくさんいたことが
分かりました。少し楽になりました。」
ルミが立ちあがると、恭平も立とうとした。
「いいのよ、まだ治ってないのでしょう。そこに居て。帰国したら、また来るか
ら。」
恭平は、笑みを作り小さく手を振った。
留美は、恭平のことを忘れたわけではないが、イギリスにいる間は、英語の勉
強に専念して手紙も出さなかった。事故で前の恭平と違うとは言っても、気持ち
良く送り出してくれた彼のためにも一生懸命に学んだ。
充実した二ヶ月、そして帰国。留美は恭平に電話を入れたのだが、その番号に
は繋がらなかった。
「あれ、携帯代えたのかな。」
留美は、恭平の部屋を尋ねてチャイムを鳴らしたが、恭平は出てこなかった。
しかたなく、留美が帰ろうとすると隣の部屋の住人が出てきた。
「そこ、誰もいないよ。」
「えっ、いつから居ないんですか。」
「二ヶ月ほど前。そこの人、オートバイに乗っていて居眠り運転のトラックと衝
突して。即死だったらしい。」
|
